Diary March 8th 2010 of Nepal Japan Project web site

RIMG1572.JPG

1.jpg



エレファントライド

2.jpg
 朝の日差しは容赦なく僕達を照りつけ、そのくせ、気温がやけに低いので、寒さで身が縮まり自然と目が覚める。出発の時間になって、集合場所から重い足取りで進む私達は「どのくらい歩くのか?」という疑問を共有していたはずだ。だがそんな不安は数秒で解消された。目を見張る程の巨大な図体に、いかにも分厚そうな皮膚、頭には薄らと毛がはえている。数メートル先には象が待機していた。
 今日は早朝から「エレファントライド」だ。とにかく眠い。まぁ眠い。僕なんかはこの三日間で異常に汚くなった部屋の掃除をしていたので、一睡もしていなかった。せっかくホテルの従業員と仲良くなったのに、旅立ってから嫌な思いはさせたくなかった。
そう、今日はチトワンで過ごす最後の日だ。前日まで四日間に渡って行った研究、調査、議論を一通り終えて、今日からは存分にネパールを味わう観光客になる。今日のスケジュールとしては、「エレファントライド」(自由参加)を体験し、すぐに朝食を取った後、カトマンズ行きのバスに乗る。再び苦しい七時間の移動を我慢しなければならない。まぁ、それも良い思い出だ。
 ホテルの従業員が誘導して四人一組で象に乗り、いざ出発。想像以上の揺れに動揺していた人が多かった。終わった後には気分が悪くなった人もいたぐらいである。最初の数分は酔いとの戦いだったが、30分も経過すると大分慣れてくる。途中、象が便意を感じたらしく、それに連動したのか象のドライバーもトイレに向かうというハプニングがあったが、それ以外は難なく進み、昨日のカヌーの終着地点だった森林地帯に突入した。ジャングルではたくさんの野生の動物-例えばサイやシカやサル-に遭遇し、存分に野生生物の多様性を満喫できた。象は草木があっても関係無く突き進むので、常に鞭の様に唸る草木の攻撃を回避しなければならなかった。木漏れ日が綺麗に(それこそ)枝分かれして自然を感じたのは言うまでもない。一番印象的だったのがクジャクの発見である。終盤に近付いて退屈になってきた頃、一本の高い木に優雅にとまっていた。クジャクと言えば動物園で見る限り、鶏の如く動きが鈍い動物だと認識していたので、まさかあんな高い場所にとまっている姿を拝見できるとは夢にも思っていなかった。


さよならチトワン!

3.jpg
 帰りは小型トラックの荷台に乗せてもらって心地よい風を受けた。通行人に100回くらい手を振った。確実に笑顔で手を振り返してくれるチトワンの人と今日でお別れだと思うと、何だか寂しさが残った。
 帰宅後、急いで朝食を食べ部屋に忘れ物が無いか確認する。ホテルの従業員と戯れた犬と猫に別れを告げ、7時間の旅に出た。
 三時間程、完全に舗装されていない不安が漂う道路を進んだ。5日前、カトマンズからチトワンに向かう際に、山岳地帯でランチ休憩をした。帰りも同じ場所で休憩を取る。おそらく伝統的な激辛料理を食べることは、あのランチが最後の機会になる。皆、何気なく食べ終えトイレを済ましバスに乗り込んだが、それに気付いていた人は何人いただろうか。今思うと、チトワンで生活したという事は、その地域の伝統料理を毎日食す事が日課となっていたという訳である。どんな場所でも食事は生活の基盤だ。体に染み付く。あの胃が受け付けないスパイスの効いた料理だって、今思い返すと無性に食べたくなる。でも結局のところ、ランチを食べ終えても、チトワンから本当に離れてしまう実感が湧かなかったのは、あのスパイスのせいだと思う。きっと感覚が麻痺したのだろう。
 残り二時間程の旅に、かなりの倦怠感を感じながらバスが出発。揺られるバスの中で、さっきの休憩場所で物乞いをしていた子供達が頭に浮かんだ。 風貌からして見るからに貧困層の子供だとは分かる。さらに殺風景な山岳地帯が、あまりにも殺伐とした雰囲気に見えたため、五日前の私は、あそこが最貧困のエリアだと勝手に決め付けてしまっていた。四日間チトワンで様々な階層のコミュニティーを目の当りにした私は、見た目で端的に判断し、子供のドキュメンタリー番組でよく見る様な目に押し潰されそうになった五日前とは、見聞してきた経験が違った。だから、物乞いに対しても特別な感情を抱かなかった。というのは嘘で、抱かないようにした。だがこの地域が実際に最貧層であるのか、それを確認する度量は身に付けた。
 パートナーに聞くと、意外な答えが返ってきた。チトワンで一日目に調査したエリアと同じ階層のコミュニティーだと言うのだ。一日目といえば、5段階で言えば2レベルの経済水準に位置する地域の家庭に訪問した日だ。パートナーから質問を追究すると、より明確なその理由が分かってきた。
 まず正確には一日目に調査したエリアの方が、少しだけ経済力が上のようだ。異なる点と言えば、水源確保の違いである。共通しているのは、農業で生活資金を得ていることだ。だが輸送経路が困難な道ゆえに、何かと地理的に不利な点は払拭出来ない。だがその広大な土地を利用している農業は一日目に調査したエリアより活発な様である。
これらの点を考慮するとパートナーの言っている事が少し理解出来る気がする。パートナーは彼ら(山岳地帯に物乞いしている子供達)は狡猾だと言っていた(僕は素直に頷けなかったけれど)。象のドライバーは月収3000Rsで、それで生活している。もし山岳地帯の子供に同情心から1000Rs与えたら、もしそれが三回続いたら、労働しなくても生きていける。つまり自立性も何もないことになる。だけど、そんな例を出した所で、私達の生活とは、いずれも次元が違いすぎるため、やれ狡猾だ、やれ自立性だなんて、安直に言えない。だけど薄っぺらい同情心だけは、ある。 何だか胸が締め付けられるような気がして、同時に凄く虚しくなった。
 山岳地帯を抜け、カトマンズ市街地に入ると、騒音級のクラクションと信号の無い危険な横断歩道に改めて驚愕。ここに一年間住んだとしても、ここの交通規制には慣れる自信が無い。



最後のディスカッション!

4.jpg
 ホテルに到着し、皆、疲労困憊する表情が伺えた。少しの間、自由時間を設けられた。今まで買い物という買い物が出来なかったので、嬉しいと言えば嬉しい。疲労と歓喜が入り混じった複雑な面持ちで出発。ホテル周辺の店では、紛い物の服が大量に売られていた。現地の言葉で話しかけ、店員に気に入られることで英語よりも円滑に値下げ交渉を成功させた人の健闘もあり、かなり値切ってもらえた人もいた。本屋に向かうと、店頭に日本語で「日本の本二万冊あります」と書かれた看板が立掛けられていた。そこには従業員として働いている日本人の女性がいた。日本でネパール人と結婚し7年前にネパールに移住し、ここでずっと働いているとのことだった。その人は旧武蔵工業大学に馴染みのある人らしく、その出会いに僕達は、不思議なこともあるものですね、と驚き、喜んだ。僕は本を物色する作業に移った。すると、相当古い本がいくつも掘り出すことが出来た。何故こんなに古い本が在庫にあるのかと聞くと、何年も前にネパールに滞在していた日本人が、読み終えた本をここに売りにきたのだという。遠藤周作やアガサクリスティーの年季の入った本は、何だか独特の匂いがして、その本を手にした人は、昔のネパールを僕達と同じように見て聞いて、何かを感じ、同じように日本に帰る、そんなことを思うと、何だか、本当に貴重で、不思議な経験をしたのだと実感した。
 ホテルに帰り、最後のミーティングが開かれた。マニタや岡部さん、さつきさんはいないけれど、全員が集まるJAPANプログラムとしてのミーティングというのは最後になる。同行してくださったスタッフの方々が、一人一人コメントをする。疲労で顔を上下させる人や、真剣に話を聞く人、感傷的になる人。この時、話を聞きながら各々が感じたことは貴重で、あたたかいものだ。それは多分、スタッフの方々も同じで、僕達は心地よい時間を共有した。
 ミーティング終了後、farewellパーティーで渡すカードと、スタッフの方々への色紙を皆で書いた。めんどうくさいと呟きながら、書き始めると止まらない。何を書けばいいか。思い出が溢れ出し、話に盛り上がる。気付けば、時計の針は十二時を大きく回り、一時半にさしかかろうとしていた。不器用な英語で書かれた、気持ちを込めたメッセージは紙いっぱいに広がり、その時間にやけに納得した記憶がある。
 このホテルに泊まるのも、ネパールにいるのも残り二日になってしまった。明日は、時間を噛み締めながら過ごしたい。そう切に思う。